反射炉と鉄製大砲
佐賀藩が1850(嘉永3)年、現在の佐賀市長瀬町に築いた「築地反射炉」。佐賀藩のみならず、日本の近代化の出発点となった施設だ。
反射炉は、鉄や青銅などの金属物を高温で熱して溶融・精錬するための装置。炉の天井に熱を集中し、その輻射(ふくしゃ)熱を利用することから反射炉と呼ばれた。
築地反射炉建造の目的は、当時主流だった「青銅砲」よりも強力な「鉄製大砲」の製造。佐賀藩は試行錯誤を重ね、1852(嘉永5)年、日本で初めて鉄製大砲の鋳造に成功した。
1853(嘉永6)年のペリー来航を機に、幕府は海防の重要性を認識したが、当時、鉄製大砲を造れたのは佐賀藩だけ。佐賀藩は幕府の注文を受け、新たに「多布施反射炉」を設け、鉄製大砲を鋳造した。国が地方に援助を求めるのは、昔も今も、極めてまれなこと。幕府の威信が失われても、鉄製大砲の魅力は捨て難かったのだろう。このことは、佐賀藩のプレゼンス(存在感)をますます高めることとなった。
その後、佐賀藩は韮山(にらやま)(静岡県)や萩藩(山口県)の反射炉建造も支援し、製鉄技術が日本中に広まるきっかけにもなった。

<資料>
多布施反射炉の復元考証図「多布施公儀火矢鋳立所図」(公益財団法人鍋島報效会所蔵)