2018年 明治維新150年に向けて、幕末維新期における佐賀藩の歴史を楽曲に!

明治維新において活躍した雄藩の代表としてうたわれる「薩長土肥」。
その「肥」の字は肥前の佐賀藩を表しており、佐賀藩は大胆な教育改革による人材育成と、最先端の科学技術導入により鉄製大砲の製造に成功したことから、当時の日本国内において圧倒的な影響力を持っていた。
本作は、佐賀藩を牽引した第10代藩主 鍋島直正(号:閑叟<かんそう>)の類まれなリーダーシップと世界を見ていた広い視野をテーマにしている。

今回のトラックを制作するのは、HIP HOP界の大御所、DJ WATARAI。
MCを務める4人の歴史好きラッパーのうち、KEN THE 390、KOHEI JAPAN、DEJIの3人は、佐賀藩出身 大隈重信侯が創立した早稲田大学における、ソウルミュージック研究会「GALAXY」のOB。
そしてもう一人のMC、K DUB SHINEは、佐賀藩主の流れをくむ鍋島家の邸宅があった、渋谷区立松濤中学校のOBという、佐賀藩に縁のあるMC陣でのマイクリレー。
「日本は佐賀を見ていた 佐賀は世界を見ていた」全ての言葉がパンチラインといえる楽曲が完成した。

KEN THE 390

フリースタイルバトルで実績を重ねた後、2006年アルバム「プロローグ」をリリース。現在までにアルバム8枚、ミニアルバム4枚を発表。2012年12月には主宰レーベル「DREAM BOY」を設立。実力実績も備えた、中堅世代においてシーンを牽引する存在である。活発なアーティスト活動を続けながら、現在は話題のMCバトル番組“フリースタイルダンジョン”にも、審査員としてもレギュラー出演。その活動はレーベル運営からイベントプロデュースにいたるまで、多岐にわたっている。早稲田大卒、「GALAXY」OBである。

<アーティストコメント>
個人的に維新前後の歴史が好きだったので、オファーをとても嬉しく思いました!
参加MC陣皆で、佐賀県の方から、歴史や幕末の話を詳しく聞かせていただいたのも、とても楽しかったです。
楽曲としても、同級生のDEJIやシーンの大先輩たちとご一緒させて頂けて光栄でしたし、
このメンバーならではのミラクルが起きていると思いますので、ぜひ聴いてみていただければ嬉しいです。

KOHEI JAPAN

ジャパニーズ・ヒップ・ホップの創世記とも言える1991年よりマイクを持ち、自身の母体ともなるユニット、Mellow Yellow<メローイエロー>を結成。ライムスター、イースト・エンド等とFunky Grammar Unit<ファンキー・グラマー・ユニット>に属し、シーンの興隆を担う。その後ソロ・アーティストとしても活動を開始、家族愛を謳ったリリックは「JAPAN TIMES」「朝日新聞」など、新聞各紙に取り上げられ話題となった。早稲田大卒ではないが、「GALAXY」OBで、在部当時は部長も務める。
歴史への造詣が深く、また佐賀県との関わりとしては、肥前名護屋城歴史ツーリズム協会のPVにおける、音楽提供の実績がある。

<アーティストコメント>
「幕末」に活躍した藩といえば、「薩長土肥」と答えられるのだけど、
じゃあその「肥」、つまり肥前佐賀藩は何をやっていたのか?と問われると、
意外に答えられなかったりして。
じゃあその答えは?この曲を聴けば分かるハズです。みなさん乞うご期待!

DEJI

佐賀県出身の実力派ラッパー。赤松小→城南中→佐賀西高(藩校弘道館の流れを汲む)→早稲田大と、佐賀藩との縁が深い経歴。少年野球時代、雨の日は佐賀城址の鯱の門の下で筋トレ、冬の練習では佐賀城のお堀端をひたすらランニングして心身を鍛えた。2000年 佐賀県から上京するとともにマイクを握り始める。MCバトルの実績も豊富。2017年2月22日には6枚目のアルバム「草莽の人」をリリースする等、これまでにソロ名義で6枚のアルバムをリリースしている。「GALAXY」OBである。

<アーティストコメント>
佐賀県出身者として、今回の企画に参加させていただいたことを非常に嬉しく思います。
佐賀城本丸歴史館が建っている場所は、私が小学生の頃は赤松小学校の敷地であり、真夏の暑さの中、少年野球で汗を流した記憶や、真冬にお堀端を何周も走った記憶は、一生忘れることのない大切な思い出です。
今は東京で暮らす身ですが、佐賀の歴史に触れることが出来て、また、楽曲で憧れの先輩方と共演することが出来て、こんなに嬉しいことはありません。
日本全国の皆様、そして佐賀の友人知人の皆に聴いていただきたいと思います!

K DUB SHINE

日本のHIP HOPシーンにおける重鎮、レジェンド的存在
現在の日本語ラップにおける韻の踏み方の確立に大きく貢献したMCと呼ばれている。その洗練された文学的な韻表現と社会的な詩の世界は様々なメディアで高い評価を獲得している。また、コメンテイターとしても数々のメディアに登場している。
社会派ラッパーとしての地位を確立し、社会において教育が大事という持論を持つ。
日本の現状を独自の視点で切り込んだ最新アルバム「新日本人」が話題となっている。
渋谷区出身であり、維新後に鍋島家が「松濤園」という茶園を開いた地であることに因む松濤地区とも深い縁がある。

<アーティストコメント>
HIP HOPで情報発信することが、「佐賀県シャレてるな」と思いました。自分にとっても小さい頃から松濤公園は馴染みのある場所だから、鍋島家の足跡が残っている土地ということも知っていたし、
この地からメッセージを届ける事をイメージしました。
佐賀県だけじゃなくて、九州、日本全国でこの曲みたいな試みが増えていて我々としてもラップをやってきて良かったなと思います。

楽曲を通して佐賀県が伝えたいメッセージと背景

The SAGA Continues...KEN THE 390, KOHEI JAPAN, DEJI, K DUB SHINE
(KEN THE 390)
時は維新の54年前
歴史に名を刻む名君が誕生
その名も佐賀藩第10代藩主
鍋島直正 a.k.a 閑叟

わずか17でなる藩主
まずは貧乏な藩から抜け出す
藩政改革で財政再建
10年もすりゃもう完全再生

さらに強化する長崎警備
西洋に遅れていたからリベンジ
鎖国してた当時の日本のどこよりも
早くから取り組む近代化

人材が大事 大砲も大事
それ気づくペリー来航13年前タイミング
世界の情勢 いち早く察知
「先憂後楽」 そこで証明

(HOOK)
我が佐賀その名が
永らく輝くには自らが
故郷を愛し本気で言う
ザ佐賀コンティニューズ

(KOHEI JAPAN)
江戸三百諸侯で唯一無二 海の外のコトには目をつむり
刀に甲冑 武器は火縄銃じゃ この日本を守る事は無理
いち早く強化する軍備 導入した西洋式銃器
黒い船が浦賀に来航する ずっと前に佐賀だけが標準装備
閑叟公曰く「自分の不束は日本の御不束となる」
自腹で整備 長崎に要塞 鋳造に成功 鉄製の大砲
ペリー来航 迫る開国 幕府は助け乞うその最強の大砲に
江戸のお台場に据え付ける 佐賀の砲口が世界睨みつける

(HOOK)
我が佐賀その名が
永らく輝くには自らが
故郷を愛し本気で言う
ザ佐賀コンティニューズ

(DEJI)
薩摩の島津 佐賀の鍋島
未来担う 日本のためになる
近代化の手本 として 信頼あるライバル
同士で手を 握っては 切磋琢磨
幕府も佐賀に大砲 発注し高まる
富国強兵 デッドヒート 見渡す光景 一歩リード

日本は佐賀を見ていた 佐賀は世界を見ていた
明確なビジョンで俯瞰する
低下する国力 いかん 内より外 むしろ見事
おい薩長土の後ろになど つかん
がばい 誇り高か 男たち
鯱の門から見渡す世界

(HOOK)
我が佐賀その名が
永らく輝くには自らが
故郷を愛し本気で言う
ザ佐賀コンティニューズ

(K DUB SHINE)
遥か遠く、江戸の外れ
渋谷の坂やビルに隠れ
街の森の奥、水車ある池
から佐賀藩主の功績聞け!
江戸後期の情勢直視
欧米列強の現実に即し
武器製造で高めた抑止
軍事力強化務めた国士
このまんまでは良くないな
と語学に医学に国際化
目指し教育を特に改革
翻訳正確、技術開発
どデカイ鉄の大砲誇り
並んだ東京湾のほとり 
松濤から感謝する近代化
閑叟グランドデザイン書いた

(HOOK)
我が佐賀その名が
永らく輝くには自らが
故郷を愛し本気で言う
ザ佐賀コンティニューズ

楽曲を通して
佐賀県が伝えたいメッセージと背景

(1)幕末佐賀藩は「近代化のトップランナー」
●佐賀藩第10代藩主 鍋島直正(閑叟)は、数え年17歳で藩主となり、財政難に苦しむ藩を、徹底的な質素倹約や農政改革、特産物輸出等の藩政改革によって藩財政を再建し、十数年後には富裕藩に導いた。
●佐賀藩は、江戸時代初期から幕末に至るまで、西洋諸国との唯一の窓口である長崎(当時長崎は幕府領)に隣接していることから、幕府から長崎警備の軍役を命じられていた。
●長崎警備は藩財政の大きな負担を要するが、一方で「異国」「西洋」の書物・文化・知識人に触れる機会が多く、自ずと国際感覚が醸成されることになり、特に鍋島閑叟が藩主となってからは、彼の先進性、マネジメント力、リーダーシップと相まって、佐賀藩は西洋に倣った近代化政策を推し進めた。
●閑叟は長崎警備の視察の際、オランダ商船や軍艦に自ら乗り込み船内を見学するなど、西洋の進んだ文明を実見し体感。自ら海防感覚を磨き、その実行力やリーダーシップに藩士たちも感化された。
●閑叟が特に危機感を感じたのは、ペリー来航の13年前に、お隣清国(中国)で勃発したアヘン戦争で、アジアの大国である清が欧米の砲艦外交になすすべもなく敗れた事件であり、日本の最西端で天下国家のために長崎警備を担う立場として、欧米列強の軍事力に対する強烈な警戒心が生まれた。
●世界情勢をいち早く把握し、これに対抗するために出した答えが、鉄製大砲と蒸気船の自力開発だった。
●また、西洋の学問(蘭学)を早期に取り入れるなど、藩内の教育制度を整備し、人材育成に力を入れたことによって、オール佐賀による近代化政策を可能とした。
●閑叟の座右の銘「先憂後楽」(天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)
 ⇒リーダーとして領民に寄り添い、帝王学を身に着けた藩主だった。
(2)佐賀藩が有した軍事力は日本最強
●佐賀藩は、長崎警備を通して、従来の装備品が西洋に比べて旧式で威力が貧弱なことを認識しており、ペリー来航の約5~10年前には西洋式砲術を取り入れ、藩内の装備品にも西洋式の銃器を導入した。
●幕府にも長崎防備強化策(新台場を築造し西洋式鉄製大砲100門を配備する壮大な計画)を提案したが、幕府は在来の防備体制の強化で事足りるとの判断だったため、「自分の不束は、日本の御不束となる」という気概で、長崎警備を担う立場から天下国家のため自費において佐賀藩独力での台場築造を決意。
●長崎台場に据え付ける鉄製大砲についても、藩の総力をかけて自前で鋳造することに挑戦した。
●不撓不屈の努力の結果、ペリー来航の前年には、既に佐賀藩自前での鉄製大砲の鋳造に成功しており、その鉄製大砲を含めた約60門の大砲を長崎の新台場に据え付けたことで、長崎の防衛力は一変した。
●一方、江戸湾へのペリー来航で、やっと黒船の脅威を肌で感じた幕府は、慌てて海防強化を検討し、江戸湾の品川台場(現在の東京・お台場)に設置するための鉄製大砲を、至急佐賀藩に発注。
●これまで幕府は、諸大名に軍役を命じることはあっても「軍事援助」を求めることはなかったが、「征夷」大将軍の武威に傷がついてでも、鉄製大砲の製造依頼(=軍事援助)を佐賀藩に求めた。
これは、まさに「パラダイムの転換(パラダイムシフト)」だったと言える。
●アメリカのペリーは江戸湾の貧弱な防備の前に強気な態度で開国を迫ったが、それに対して、翌月長崎に来航したロシアのプチャーチンは、閑叟が整備した精鋭の大砲がずらりと並ぶ堅固な対外防衛施設が海面を威圧していたこともあって、高圧的な態度をとることはなかった。
●閑叟自身も、自ら整備した佐賀藩の軍事力に絶対的な自信があり、国内には敵なしという強い自負があったと思われる。
(3)その時、日本は佐賀を見ていた。佐賀は世界を見ていた
●佐賀藩の盛名は全国に鳴り響き、諸藩からの鉄製大砲の注文や技術伝習の求めが殺到した。
●幕末の名君として名高い薩摩藩第11代藩主 島津斉彬も、閑叟と従兄弟という関係からよく情報交換する仲で、佐賀藩を近代化の手本とし、薩摩から技術援助を求められた閑叟も協力を惜しまなかった。
●島津斉彬は、反射炉の築造に着手した自藩技術陣に対して、「西洋人モ人ナリ、佐賀人モ人ナリ、薩摩人モ同ジク人ナリ。退屈セズ倍々(ますます)研究スベシ」と、西洋人と佐賀人を並べ称して叱咤激励。つまり「西洋人も佐賀人も同じ人間である。我々薩摩人にもできる。励め!」と鼓舞した。
●ペリー来航により危機感を抱いた幕府も、佐賀藩への大砲発注と並行して伊豆韮山にて反射炉建設に着手したが難航し、幕府からの技術支援を要請された佐賀藩が、技術者を現地に派遣協力して完成に導いた。
●長州藩第13代藩主 毛利敬親も、閑叟あてに直々に依頼状を送り、藩士が大砲製造技術の実地研修に訪れた。
●このように、佐賀藩は近代化政策に成功して圧倒的な軍事力を誇ったがゆえに、幕府側と倒幕側のどちらに与するのかに世間が注目したが、日本人同士の内乱が国力低下を招くことを懸念した閑叟は、どちらとも一定の距離を保ち、自らの任務である長崎警備、そして日本の国防に力を注いだ。
●閑叟は、薩長土などの雄藩が中央に進出し国内での政局争いに身を投じるのを尻目に、海外情勢を注視し、日本の国防とその先にある海外進出を見据えていた。(後の人口増加や食糧不足を見据え、北海道やオーストラリアの開発を考えるなど常に先のことを見通し、薩長土が国内問題を中心に論じている中で、佐賀だけは世界の中で日本の将来を考えており、その時代において視点がすでに超越していたといえる。)
(4)近代化の推進と明治維新における働き
●日本初の予防注射を実施するなど西洋医学を導入普及し、蘭学に加え英学を導入するなど教育改革も推進。
●科学技術開発体制を着々と整備し、反射炉で鉄製大砲を製造するかたわら、機械、薬品、ガラス、写真などの技術開発と合わせて蒸気機関の製造を進めた。
●海軍伝習に力を入れるとともに蒸気機関を用いた蒸気船の建造にも成功し、藩内に設けた海軍所には、輸入軍艦を含む13隻の艦隊が組織され、強力な西洋式海軍を保持することとなった。
●中央で倒幕派と幕府との政争が激化する中、佐賀藩は長崎警備に注力。
●やがて、幕府から朝廷への大政奉還を経て、王政復古の大号令を発端に、新政府軍(薩長軍)と旧幕府軍とが鳥羽伏見で衝突した結果、新政府軍が勝利し、将軍慶喜は戦場から江戸に帰還。
●閑叟は、鳥羽伏見で大きな内乱が避けられたことを見極めた後に、佐賀藩の新政府軍への味方を表明。
●佐賀藩の砲兵軍団は、彰義隊との上野戦争や、会津藩との会津戦争など、その後の戊辰戦争の主要戦闘において、新政府軍の勝利に大きく貢献。
●新政府樹立後は、閑叟が整備した教育制度の下で学んだ、大隈重信や江藤新平などをはじめとする多くの佐賀藩出身者が明治政府での要職に就き、近代国家としての日本のグランドデザインの設計に大きく貢献した。

メッセージ

「The SAGA Continues...」

幕末は非常に分権的で、地方がそれぞれ独自に知恵を絞って頑張っていた時代でした。現在も地方創生が叫ばれている中、地元のため、世の中のために、自分が与えられた立場において世界を見据えて何ができるかを考えた閑叟の姿勢から、今を生きる私たちも学ぶべきものがあるのではないでしょうか。この曲をきっかけに、先人たちの偉業を顧みて、将来につながる何かを感じ取っていただけると幸いです。

時は幕末、激動の時代、明治維新において薩長土肥の一角をなす肥前=佐賀藩。
佐賀藩は、大胆な教育改革による人材育成と、最先端の科学技術導入による鉄製大砲の製造に成功したことから、
当時の日本国内において絶対的なプレゼンスを獲得した。
そのけん引者は、肥前佐賀藩 第10代藩主 鍋島直正(閑叟)。

日本の近代化のトップランナー
~鍋島直正がけん引した幕末佐賀藩の近代化政策~

肥前佐賀藩 第10代藩主 鍋島直正(斉正/号:閑叟)<1814~1871年>
数え年17歳(満15歳)で家督を継ぎ、窮乏した財政を再建するため藩政改革を行い、その改革の中で人材の登用を図り、医学校、海軍教育機関の創設、弘道館の拡張と教育にも力を入れた。
また、西洋医学を積極的に取り入れ、天然痘の予防のために当時あまり行われていなかった種痘を嫡子淳一郎(直大)に接種し、藩内に広めた。
さらに長崎警備の強化に力を注ぎ砲台を築造し、城下に反射炉を築いて大砲を鋳造したほか、洋式の軍隊を組織し蒸気船を建造するなど近代化を進め、戊辰戦争ではアームストロング砲を用いて、新政府軍を勝利に導いた。
維新後は、新政府の議定、北海道開拓長官などを歴任し、大納言に任ぜられた。
座右の銘は「先憂後楽」(天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)。

鉄製大砲、蒸気船・・・圧倒的な科学技術

佐賀藩は西洋の科学技術をいち早く取り入れ、自力で鉄製大砲・蒸気船等を開発し、
近代化のトップランナーとなった。
欧米列強のアジア進出という「外圧」に備えた軍備増強の必要性からだったが、
高い技術力による数々の成果は、その後の日本が目指す「技術立国」をほうふつとさせる。

佐賀藩は西洋の科学技術をいち早く取り入れ、自力で鉄製大砲・蒸気船等を開発し、近代化のトップランナーとなった。
欧米列強のアジア進出という「外圧」に備えた軍備増強の必要性からだったが、高い技術力による数々の成果は、その後の日本が目指す「技術立国」をほうふつとさせる。

維新期に羽ばたいた佐賀人たち

2度の総理大臣
大隈重信 (1838~1922年)

明治政府で大蔵卿など要職を歴任、太陽暦の導入や鉄道施設、貨幣制度の整備に力を注ぐ。内閣総理大臣を2度務め、日本初の政党内閣を組織した。東京専門学校(後の早稲田大学)を創設するなど、新時代の教育にも情熱を注いだ。

司法制度を近代化
江藤新平 (1834年~1874年)

下級武士層に生まれ、貧困をばねに才能を発揮。明治政府に出仕すると、法整備などを担って近代化を進めた。参議・司法卿となるが、急進的な立場をとり政変で下野。「佐賀の乱」で征韓党首領に担ぎ出されて敗れ、処刑された。

外交政策に手腕
副島種臣 (1828年~1905年)

勤王家枝吉神陽の弟で、早くからの尊王攘夷思想に目覚める。維新当初の法整備や外交政策を担当して明治政府内で頭角を現し、外務卿などを歴任。新時代の到来に理想を掲げ、日本の近代化を支えた。「蒼海」と号し、書家としても名高い。

日本赤十字社創設
佐野常民 (1822年~1902年)

佐賀藩の理化学研究所「精煉方」の主任として科学技術導入に取り組む。佐賀藩が参加したパリ万博、明治政府が初出展したウィーン万博で出展責任者を務め、産業・文化の振興に貢献。人道主義思想も紹介し、日本赤十字社を創設した。

北海道開拓の父
島義勇 (1822年~1874年)

鍋島直正の命を受けて幕末の北海道を探査。明治政府では北海道開拓使判官となって札幌の市街建設に手腕を発揮した。後に秋田県権令などを務めるが、「佐賀の乱」で政府軍に敗れ、江藤新平とともに斬罪となる。

東京遷都を提唱
大木喬任 (1832年~1899年)

明治維新で江藤新平と東京奠都論(東西両京論)を唱え、民間出身の初の東京府知事に。その後、初代文部卿となり、現在に続く学制の基盤を作った。明治半ばまで司法大臣、元老院議長、枢密院議長などを務め、政界で活躍を続けた。

幕末維新期の佐賀藩に係る史跡等

東京でのロケ地紹介

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